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「月華覇伝」
月華覇伝7

月華覇伝7-1 

 
 明け方、僅かにまどろんだ殺生丸の耳は、小さな軽やかな足音と澄んだ鈴の音が広い廊下の右手側より近づいてきて、左手側に通り過ぎるのを聞いた。

「――――― ?」

 聞き覚えのある足音に耳を澄ませていると、通り過ぎたはずの廊下の奥から、またこちらへと足音と鈴の音が戻って来る。そしてまた。ふと、今がいつ時なのだろうかと、透明の水晶を嵌め込ませた窓へと目を向ける。窓の下の端が辛うじて薄紫色に変わっていた。夜明けまで、もう少し時間がかかりそうだ。

「……一体、何をしているのだ。あれは」

 後宮に侍らせている側女の房の寝台の上で、思わずそんな呟きを漏らす。その足音の正体を知っている殺生丸だから、口をつくその台詞。殺生丸付きの後宮宮女とはいえ、まだ見習いの域を出ないどころか年齢的には何処からどう見ても子どものりん。まだ寝床で寝ているような時間だ。

「何をって、大事なご主人様を探しているんだろうさ」

 むわっとむせるような麝香の香りが鼻を打つ。まどろむまで、肌を合わせていたこの房の住人である、風舞の神楽だ。今朝方まで流した汗を、房内にある湯殿で湯浴みしてきたのか、いつもよりその妖艶な香りは増している。薄絹の下衣一枚のしどけない姿で濡れた髪を垂らしたまま、滴が薄絹の衣を透けさせてその下の豊満な肢体を露わにさせる。

「お前も、あれを知っているのか?」
「うん? ああ。後宮でも、ちょっとは有名な娘だからね」
「有名?」

 湯上りで喉が渇いたのか、神楽が金香酒を盃に注ぎ一口で煽る。そして、同じ盃に金香酒を注ぐと無作法に見える仕草で殺生丸の方へと差し出した。殺生丸は一瞬、怪訝な顔をし視線の動きだけでそれを拒否した。

「おやぁ、毒なんて入ってないよ? 今、あたしが飲んで見せただろ?」
「…………話を逸らすな。私の問いに答えろ」

 低く冷たい声音は、先ほどまで抱いていた女にかけるにはあまりにも情が無い。殺生丸に勧めた酒を断られても、神楽も慣れたものかその盃の酒を、またも一息に開けるとあっけらかんとした口調で後宮内の噂を口にする。

「御上品に飼い慣らされた姫君に食傷あそばれた殺生丸様が、あてつけの様に薄汚い小娘をどこぞより拾って来られて、手元でご自分好みの女に育つのを待っておられる、とかさ」
「愚にもつかん噂だな」
「そうでも思わなきゃ、姫君たちの気持ちが納まらないんだろう。殺生丸様は、常軌を逸した趣向の持ち主だから、自分達は合わないんだと」
「……たかが、政略絡みの夜伽人形の分際で、大きな口を叩くものだ」
「仕方ないだろ? 怖がられてるのと同じくらい、恨まれてもいるしね。だってあんたの姫君たちに対する態度は、あたしから見ても、そりゃ酷いと思うし」

 そう言う神楽に対しても、殺生丸は他の後宮の側女と同じように扱っている。ただ耐性が違うのか、人がされてれば酷いと思う行為も、自分となるとそうでもないらしい。

「それに、そんな噂が出るのも、他の高貴な姫君たちをほったらかしにして、あたしみたいな下賎な女の所に通うからだろう?」
「……お前も食えない女だが、おびえた目をして作り笑いで媚を売られるより、よほどマシだ」

 珍しい殺生丸の言葉に、神楽は密かに胸をときめかせる。
 他の姫君たちが殺生丸を怖れるのに対し、神楽は怖れ以上に思慕も抱いていた。加えて、自分もまた下賎な出であると自覚している。家柄や高貴さや血筋などを引き合いに出され、何かに付けては同じ後宮住まいの姫君たちから、白眼視されていた。本来なら、こうして殺生丸の側女になれるような身分ではない。そんな自分の所に通ってくれる、それだけで神楽の気持ちは満たされていた。

「……あんた、気付いてないだろ? あの子、りんって言ったっけ? あの子があんたの側をうろちょろしていると、その物騒な気配が半減するんだよね」
「馬鹿な事……」
「不思議な子だよねぇ、りんって。ちっとも、あんたの事を怖がらない。だからなんだろうけどねぇ」
 
 神楽はそう言いながら、幼い頃失くした母の残した言葉を思い出していた。

 ……他人は、自分の心の鏡。自分が相手の事を嫌えば、相手も嫌う。好意を寄せれば、相手も悪くは思わない。だから、お前も心を歪ませてはならないよ ――――

( 殺生丸の心のどこを映せば、あんなにも慕わしげに信じられるんだろう? 幼いりんにそう思わせたものは、欲で濁ったあたし達の眼には映らないのかもしれない )

 神楽がそんな物思いに浸っている間に、殺生丸は身支度を整え終わっている。

「もう、行くのかい?」
「ああ」
「そのほうが良いだろうね。あの子はあんたが見つかるまで、この後宮中を休みもしないで、探し回るだろうからさ」

 殺生丸は神楽の言葉を聞き流し、西域から運ばれた厚手の絹織物の帷帳を潜り紫檀細工の房の扉へと手をかける。その扉が開くのと同時に、探し人を見つけたらしい、可愛い鈴の音が物凄い勢いで駆け寄ってくるのが聞こえた。閉じかけた扉の隙間から聞こえる鈴の音に良く耳を澄ますと、弾むような小さな足音も聞こえた。口の利けないりんだけど、その振る舞いでりんの思っている事は誰にでも手に取り様に判るのだ。

「……出会った時が溝鼠か野良犬で、今ならさしずめ兎の仔って所かねぇ。どうしてそんなに嬉しんだか、小躍りして飛び跳ねているのが目に浮かぶよ」

 目に浮かんだ情景に、思わず小さな微笑みを浮かばせずにはいられない神楽だった。


  ************************


 一人になった房の中は、朝日が差し込んできたと言うのにどこか寒々としている。現神官長の異母妹と言う肩書しか持っていない神楽には、この後宮内に心を許せる者など、実は一人もいない。そんな所が殺生丸の心境とも重なって、似た者同士が夜を過ごすだけだと、朝が来るたび思い知らされるのだ。
 自分の身の回りの世話をする女官達でさえ、実は異母兄の手の者。ここでの行動は、逐一異母兄・奈落に報告されている。

「……籠の鳥、かぁ。早くに死んだ母さんと同じ」

 神楽は窓際で、その母譲りの長くしなやかな手足と、魅惑的な肢体を朝の淡い光の中に浮かばせる。羽織っただけの薄絹の下衣が、神楽がくるりと身を回す度に光の風のようにひらりひらりと舞う。
 神楽の母は、何処で生まれたかもわからぬ流浪の舞姫であった。それがたまたま、今は亡き高貴な方の眼に留まり、そのまま寵姫とされた。そして、生まれたのが神楽。母は家屋敷こそ持たぬ流浪の民であったが、だからこそ、その目に映る大地の果てまでもが自分の故郷、高く覆う蒼天こそが我が天蓋。風の吹くまま、自由気ままに出会った人々の前で歌い、舞を踊って暮らしてきた。

 それが、どうした事か、城の奥で暮らす寵姫の身分に。

 一つ所に留まり、舞を所望されれば僅かな人間の前でのみ舞う。風切羽を切られ、大空を舞う事が出来なくなった鳥。そんな性に合わない暮らしをしていた母は、神楽が生まれた頃にはすっかり体を弱くしていた。そして、幼い神楽に見果てぬ草原の大地と、星降る大いなる天蓋の下で眠る安らかさを子守唄の様に語り聞かせ、神楽が四つの歳に逝った。それだけに、神楽は何よりも『自由』への憧れが強い。殺生丸に惹かれたのも、他を圧して自由奔放に振る舞う強さも要因だった。ここでの生活が決して『自由』ではないからこそ、傍若無人な振る舞いをしても抜け出したいのだと感じていた。

「母さんは好きでもない男に抱かれて、あたしを産んだ。あいつは周りから、この国の『継承者』だからと、好きでもない女を抱かされる。そう考えれば、少なくとも好きな男に抱かれているあたしは、マシなんだろうねぇ」

 すっかり明るくなった房の外、遠い目をして青い空を見上げる。視線を落とせば中庭を横切る大小デコボコな人影。見事な白銀の髪が朝日を受けて目に眩い。その後ろをちょこまかと黒髪の少女が付いて歩く様は、白鳳凰の後ろをカルガモの雛がついてゆくようで、どこか滑稽だ。神楽の口元に、ほんのりとした笑みが浮かぶ。

「あれに嫉妬するなんて、なんて馬鹿な御姫様達だろうねぇ。あんなの、楽しんで見てればいいのにさ」

 不思議と神楽の眼には、りんの存在がとても自由なものに映っていた。


   ************************


「……お前は、こんな朝早くから何をしている」

 ついてくるりんの足音を確認しながら、殺生丸は後宮にある自室兼執務室へと足を運んでいた。りんはその問いかけに答えるべく、急いで石板に文字を書きつけるとたったったと殺生丸の前に走り込み、その石板を殺生丸の前に掲げた。

「朴夫人からの伝言? そんな物の為に、お前は朝早くから走り回っていたのか」

 朴夫人はりんの身元引受人にして、この後宮の取り締まり差配役。実母同様、唯一殺生丸に取って、頭の上がらぬ相手であった。

「子どもの寝ている時間に使い立てさせるとは、恩顧夫人とも称された朴夫人も焼きが回ったか」

 殺生丸の言葉で、朴夫人が咎められたと感じたりんは、違う違うと首を強く横に振った。そしてまた、石板に何か文字を書きつける。

 ―――― 差配様のお言い付けは、昨夕の事でした。だから、悪いのはりんです。殺生丸様をお探しするに時間が掛かってしまったりんが悪いのです

 その文字は、りんの歳から見ればあまりにも美しい文字だった。また、その文字で綴られた言葉も、りんの内面を良く表している。

 健気さと責任感の強さ ――――

 文字が美しいのは、りんに手ほどきをした朴夫人の侍女達が名筆家だったからだろう。だが、書く言葉を選ぶのはりんの本質が選ぶ。ほんの一年ほど前までは、山に棲む野良犬のような暮らしをしていたのに、りんの中の『大事なもの』は少しも欠ける事もなく、今、強さを誇って光り出す。

( ……昨夕は気が荒んで、早々に神楽のところに籠った。それを面白く思わない他の者が、わざとりんに教えなかったのか? )

 そう悪い方に取りかけて、はっと気づく。

( いや、違うか。寵を競って足を引っ張り合う女達でも、りんのような幼き者に、濡れ場を悟らせるような事は良しとしなかったのかも知れぬ )

 となれば、りんを一晩中走らせたのは、他ならぬ自分自身であると殺生丸は気付いた。

「……言葉が過ぎた。朴夫人は、お前に取って大事な母代りであったな。お前も寝てないのであろう。用件を伝え終わったら、私が呼ぶまでお前は部屋で休んでいろ」

 りんは想いもかねないその言葉が嬉しくて、朝の光に一斉に蕾を綻ばせる野の花の可憐さを思わせる笑みを浮かべる。

「りん……」

 その笑みにつられる様に、殺生丸の口元もほんの少し緩んだことに本人は気付いていない。
 あの殺生丸が素直に自分の非を認め、労わりの言葉さえ掛け与える。誰が、こんな殺生丸を予想しただろうか? かつて、いや、今でも己の敵と判ずれば、一寸の躊躇いもなく切り捨てる男が、りんのような何も持たぬ者に情けをかける。

 殺生丸を少しずつ動かす『力』。
 それは、何も持たないからこそ持ち得る、『純なる力』なのかもしれない。

 しかし、りんは笑顔のまま首を横に振り、また石板にカリカリと言葉を書きつけた。

 ―――― 一晩寝ないくらい、平気です。りんは殺生丸様の小間使いです。殺生丸様が起きていらっしゃるのに、りんが休む訳にはゆきません。

 殺生丸の側にいるのが嬉しいんだと判るような、にぱっとした笑顔を向けて石板を差し出す。きらきらした瞳の力強い光と、全身からあふれ出る信頼と尊敬と好意が一つになった波長のようなものが、殺生丸の心のどこかを柔らかくくすぐる。

( ……そう言えば、りんはかなりの頑固者だったな。それも理を通した頑固者。ならば ―――― )

 ここで休めと言いつければ、休まないという押し問答になりそうだと殺生丸は察する。誰もが怖れて唯々諾々と殺生丸の言葉に従うのに、りんは自分の筋を通すためには、礼節を弁えながらもきちんと自分の考えを伝えてくる。

「判った。私の側付きのお前に、今日の仕事を与える。私の執務室に来て、私が良いと言うまで、あるものを守るよう命じる」

 今までにない指示に、りんの顔に緊張が走る。殺生丸の自執務室にある大事な物を守るという言葉も、りんの責任感を大きく刺激する。りんはにぱっとした、見ようによっては阿呆のような笑顔をすっと真顔に戻して、真剣な表情で深く頷いた。


  ************************


「失礼いたします。朴でございます」

 殺生丸の後宮内の執務室を、朴夫人が訪ねる。りんが一晩中走り回って殺生丸に伝えた用件は、本日の午後に殺生丸を訪ねるので、必ず在室していて欲しいというものだった。

「入れ」

 中から殺生丸の返事を聞き、朴夫人は静かに室内に入った。入った途端、この執務室には不似合いな、異質なものが夫人の眼に留まる。

「あらv まぁまぁ♪」

 夫人の眼に留まったのは、執務室の豪奢な長椅子の上で、小さく猫の様に丸まって眠っているりんの姿だった。今までであれば、この執務室で居眠りをするような者があれば、軽くて屈強な女官兵を呼びつけ叩き出すか、悪くすればその場で手打ちだ。それなのに、長椅子の上で寝ているりんの上には、殺生丸が執務室で羽織る上着が掛けられており、長椅子の側の大理石の卓の上にはりんが食べたと思われる龍眼の入った鉢がまだ残っていた。

「りんはちゃんと、御役目を果たしたようですわね。他の者では、こうは行かないでしょう」

 りんに取っても朴夫人は母代りだが、殺生丸にとっても実母である香麗国王に次いで頭の上がらない人物である。出来るだけ顔を合わせたくないと、来訪の言伝を聞いていても、あえて留守にする事もあるのだ。

「……りんを、一晩中走り回らせたからな」
「はい?」

 朴夫人が首を傾げるが、それ以上の事を言うつもりはない。言えば、この老貴婦人は顔を綻ばせ、慈しむ光を湛えた眼差しで自分の事を見るだろう。それをされたくない殺生丸だった。
 ふと、ほんの数刻前までの、りんとのやり取りを思い出す。


   ************************


 自分の言った指令に、鳩が豆鉄砲を喰らった時の様に目を真ん丸にしたりん。自分でも、滑稽な事だと殺生丸は、自分らしくなさに胸の内で苦い笑いを噛み殺す。


 ―――― この長椅子を守れって、どういう事ですか? 殺生丸様!?

 りんが筆談で、そう尋ねてくる。

「その長椅子は、私が愛用しているものだ。特に、頭の痛い事案などで疲れた時に体を休めるために。だからそれを盗まれぬよう、お前は見張るのだ」

 ―――― いえっ……! でも、この後宮の殺生丸様の執務室に泥棒が入るなんて、有り得ません!!

「……本当にそうか? りん、お前は絶対そうだ! と言い切れるのか?」

 ―――― えっと……、あの、その……

「主である私の言葉に、従えぬというのか?」

 ―――― あっ……! も、申し訳ありません!!

 筆談は途中から身振り手振りに代わり、言葉は無くともりんの『言葉』は良く伝わり、どこか面白さを感じた。
 そしてりんは、長椅子が盗まれぬようその上で、見張る事を殺生丸に言いつけられる。居心地悪そうに、豪奢な長椅子の上にちょこんと小さなりんが座っている。その違和感がまたも、面白味を醸し出す。
 長椅子に座っているうちに、散々後宮中を走り回り、朝食もまだなりんの腹の虫がグゥグゥと騒ぎ出す。りんが真っ赤になって顔を俯けてしまった。

「五月蝿いな」

 殺生丸の言葉に、りんの小さな体がますます縮こまる。その様子を見て、殺生丸は筆を執りサラサラと何か書き付け、執務机の上に置いている呼び鈴を振った。直ぐに執務室付きの女官が現れる。この女官も、朴夫人の館から後宮入りした数少ない信頼できる者であった。

「これを」

 殺生丸は現れた女官に、その書付けを渡す。恭しく、その書付けを受け取った女官が執務室を出たあと、紙片に目を落とした時に浮かべた表情を殺生丸は知らない。女官の口元には、ほんの少し柔らかな笑みが浮かんでいた。
 その女官が再び執務室に戻って来た時、その両手は黒漆塗りの大きな角盆を持っていた。盆の上には、湯気を立てている器と飲み物が入った茶碗と、少しの菓子と果物が盛った鉢とが乗せられていた。女官はそれを、りんの前に置く。

「?」

 りんが首を傾げた。どうして、これがりんの前に出されたか判らないと言う風に。りん達のような後宮詰めの宮女は、決して目上の者達の前で食事を取る事は許されていない。そして、それを当然とりんも思っている。

「お前の腹の虫を大人しくさせよ。そんな状態では、仕事にならん」

 盆を持って来た女官がりんに声をかける前に、殺生丸が事務的に言い捨てた。えっ? と言う表情のりんに、その女官が優しく笑いかけながら食事を取る事を勧める。目上二人に勧められれば、断る事など出来ないりんである。物凄い緊張感の中、恐る恐る湯気の立っている器から匙で一口、中のものを掬って口に運んだ。

「 ―――― !! 」

 口にした途端、りんの瞳がぱっと輝く。
 山羊の乳と蜂蜜で煮込んだ甘粥の、まろやかで優しい味わいがりんの口いっぱいに広がり、疲れがいっぺんに吹き飛ぶようだった。恐る恐るだった手つきが速度を増し、あっという間に器を空にする。それから喉が渇いていたのを思い出したように、茶碗に入っていた飲み物を口に含んだ。しゅわっとした初めての感触に、りんの顔が目の前で手の平を叩かれた子猫のような顔になる。その様子を、見るともなしに見ていた殺生丸の眼に、悪戯っぽい光が浮かんでいるのを、この女官は見逃さなかった。りんが飲んだのは、天然の炭酸水に桃を煮詰めて作った蜜に檸檬の汁を加えたものだった。
 味は気に入ったのか、またも恐る恐る茶碗に口を運ぶりん。一口含んで、口の中で弾ける感触に目をぎゅっとつぶり、それからゆっくり飲み下す。そのうち炭酸が抜けたのか、慣れてきたのか、ごくごくと飲み干してしまった。けぷっ、と小さく息をついて、最後に鉢の中の菓子に手を伸ばす。りんが手のしたのは、胡桃入りの揚げ餅。糯米を粉にした物に、砂糖楓の蜜を混ぜ、それを火にかける。ゆっくり混ぜて餅のようになったら、砕いた胡桃を入れて平たい盆に流し入れ、冷やし固める。それを幅、長さ共に指二本分くらいの大きさに切り分け、極上の胡麻油でからりと揚げたものだ。香ばしさとかりっとした食感を楽しむ。さすがにまだ鉢の中に残っている龍眼の実には、手が出なかった。りんの小さなお腹が、ぽんぽんに膨らんでいる。

 龍眼の残った鉢だけ残し、食事の終わった盆を女官が下げて執務室を出ると、あとには顰め辛しい顔で書類を読んでいる殺生丸と、お腹がいっぱいでちょっと苦しくなったりんが残された。静かな室内、日が昇り暖かな風が心地よく、居心地の悪い長椅子は実はとても座り心地の良い椅子で、しっかりと織られた厚手の絹の滑らかさが気持ち良い。そして、この椅子を守れと言いつけられて椅子から下りる事も出来ないりんは、昨夜から寝ていない。

 どんなに頑張っても、健康的な睡魔には勝てるはずもないりん。顰め辛しい顔で書類を読んでいた殺生丸が顔を上げると、りんは午前中の明るく柔らかな光の中でくぅくぅと可愛らしい寝息をたてて眠ってしまっていた。


   ************************


「……子どもの健やかな寝顔には、本当に癒されますわ」

 優しく微笑みながら朴夫人がりんの寝顔を見つめる。

「口が利けぬはずなのに、なぜか騒々しい娘だな」

 それは、りんが溌剌と後宮内を動き回っているからに他ならない。騒々しいのではなく、活発なだけである。

「ほほほ。まだ、子どもですからね。りんは」
「で、りんを使ってまで、私を執務室に留めた訳を聞こうか」

 今までの和やかさが影を潜め、仄かに物騒な気配が揺らめく。

「……犬夜叉様の母君の身辺に、何やら影が蠢いているようです」
「犬夜叉の……」

 そう言ったきり、殺生丸は口を閉ざす。
 やはり殺し合う運命なのかと、冷静に確認している自分を感じながら ―――― 



 
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